2610月

丹後の歴史⑳

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。嫌な雨が続いていますね。日ごとに寒くなってきて

往生しまっせ~(笑)。11月6日が蟹の解禁日です。先日、間人の平七(魚屋)

さんから電話がありました。今年は水温が高いので蟹が海底の岩に隠れたり、

或いは水温の低いロシアに向かって蟹歩きしながら逃げて行ったら・・・、どむならん!

と、心配していました・・・。って嘘です(笑)。あっ、日本海の領域を超えてしまったら

また国際問題となってしまう・・・。間人の漁師が敵国から攻撃をくらったりしたら、えらい

こっちゃ。経ヶ岬の航空自衛隊と舞鶴の海上自衛隊の後方支援を受けんと危ない・・・。

これも嘘ですよ~!ってアホなことばかり言ってないで本題へ・・・。

             

           それにしても丹後大宮にはほんとにたくさんの

           神社、遺跡などがありますね。地元にいた頃(高校時代まで)

           まったく興味がなかった(笑)から、知らなかった所ばかりで・・(恥)。

 

            あっ、またまた余談でえらいすんまへん・・・、

   そういえば四柱推命の橘先生が、以前ご紹介しました「竹野神社」は

パワースポットだと言ってました。少し前にお参りしたのですが、もうボロボロで

お金をかけて綺麗にしないと・・・。京丹後市が中心となって手を加え、パワー

スポットとして売り出せば観光客がもっと増えること間違いなし・・・。

      

                丹後大宮・・・。

         京丹後市大宮町口大宮に大野城址があります。

   この城址は旧小学校の近くにあります。今は城山公園といい、城山稲荷が

祀ってあります。

 

   この城には大阪城代として徳川家康と戦った大野修理亮治長が居城して

いたとされています。治長は父に鞍馬流の剣、柔は戸田流を、茶道は千利休に

学び、文武ともに秀でた青年だったと言われています。もと浅茂川の海賊とともに

日本海を横行して、その武勇を秀吉に認められ、弟治房とともに大阪城へ入りま

した。

 

   母の大蔵卿の局は、秀吉の側室であった淀君に仕えて秀頼の乳母となり、

方広寺大仏殿の鐘銘事件では、淀君の使者として駿府城へ赴き、申し開きを

したことで有名です。

 

   治長は秀吉の死後、秀頼の側近として仕えましたが、家康と本多正信が

策した家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として、下野国結城へ流されました。

関が原の戦いでは東軍に属して参戦し、手柄を立て、家康から罪を許されました。

 

   戦後は大阪に赴き、再び豊臣氏に仕え、淀君を戴く強硬派の首領として

大阪の実権を握った治長は、徳川との開戦準備に奔走し、大阪冬の陣では

遊軍として兵1万を指揮し、鳥合の衆とも言える大阪城中の主将格となり10万の

将兵の采配を執り、頃合をみて家康の本陣で和議を締結しました。

 

   夏の陣では、真田幸村らとともに奮戦し、徳川勢を混乱に陥れたが、敗れるに

至り城へ帰還しました。二日間に渡る激戦の末、大阪城本丸が炎上、猛火を逃れた

秀頼、淀君、治長らは助命がかなわぬと知り自害しました(この説には色々と異論

がありますが)。

 

   秀頼は、実は淀君と治長の間にできた子であるという説もあります。それ故か

最後まで秀頼と淀君を守って戦い、元和元年(1615)5月7日、大阪城で豊臣家と

運命を共にしました。

下の写真が大野城址です。

2510月

丹後の歴史⑲

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。ず~と昔(笑)、アイドル歌手としてデビューした太川陽介、

って知ってはりますか~?彼は私と同い年で峰山高校出身です。彼が住んでいた

のが大宮町なのですが、大宮中学では野球部にいたのですよ。この時に彼の

存在は知らなかったのですが、長身の速い球を投げるピッチャーがいたことを

微かに覚えています。彼は高校在学途中で東京のプロダクション「サンミュージック」

に入り歌手デビュー。「ルイ、ルイ」と(笑)唄っていました。新人賞を獲ったときには

間人中学の同級生だった木下くんが花束を持ってテレビに出て、びっくりしたことを

覚えています。あっ、そういえばこのブログにも登場してる幸市(清水幸市くん)も

同じクラスだったみたい・・・。でも(笑)、きっと坪倉くん(太川くんの本名)は幸市の

顔は見たくないでしょうが・・・(笑)。その理由は・・・、ここでは言えません(笑)ので

来店時にお尋ね下さい(笑)。

 

   昨日の秋季高校野球・近畿大会は大阪2位の履正社が兵庫1位の神戸国際を

3対2で振り切り勝利。そして奈良2位の天理が滋賀1位の八幡商を9対1の8回

コールドで下しました。近畿大会に出てくるチームは都道府県大会での順位は

あまり関係がないようですね。皆、力があります。少しの差が時によっては

大差になることも・・。一昨日の塔南もそうです。

 

         で、太川陽介くんの故郷、丹後大宮にある古墳のお話しを・・・、

   

             京丹後市大宮町谷内にある大谷古墳・・。

   丹後には約5000基の古墳があると言われており、200m級の巨大前方

後円墳(網野町銚子山古墳198m、丹後町神明山古墳190mなど)から小規模

な階段状古墳(台状墓)まで多様な形態の古墳が存在します。その多くは平地を

見渡せる丘陵上に築かれています。

 

   大谷古墳は、丹後半島の中央を北上する竹野川の上流部の右岸、平野部に

向かって北西方向に延びる丘陵の先端に位置しています。遺跡は竹野川によって

形成された沖積平野を広く見渡すことができる眺望絶景の地をしめているのみなら

ず、東は大内峠を経て阿蘇海に通じ、南は水戸谷あるいは上常吉を界して野田川

流域に至る好適な立地条件を備えています。

 

   大谷古墳は、全長32mの帆立貝式と呼ばれる前方部の短い前方後円墳

です。古墳の築造は、古墳時代中期前半と思われ、中から支配者を象徴する

鏡、玉、剣の三種の神器など多くの副葬品が出土していることから、この地方の

首長の墓ではないかと思われています。竹野川の上流部にあたる地域での首長

墓系列の古墳はあまり知られていなく、極めて珍しいケースです。

 

   発掘された石棺の内面は、ベンガラの朱(赤色の顔料)が塗布されていて、

被葬者の人骨が良好に残っていました。これは、粘土等で石材の隙間が密閉

され、棺内への土砂の流入を千数百年に渡って防いできたためと推察されてい

ます。人骨を鑑定したところ、腰骨(骨盤)、奥歯の減り具合等から、熟年前半の

女性であることが科学的に証明されました。

 

   中心主体部から女性骨が見出された古墳、つまり女性首長を葬った古墳は

全国的にも数例しかなく、この地に女王国があったのではないかと考えられてい

ます。発掘当時は丹後の卑弥呼と比喩され話題になりました。そのため、古墳の

築かれている丘を「女王の丘」と呼んでいて、史蹟公園になっています。

2410月

丹後の歴史⑱

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。昨日は秋季高校野球・近畿大会の1回戦が行われま

した。京都大会で優勝した塔南高校は兵庫3位の報徳学園と対戦し、3対13と

6回コールド負け・・・。いったいどうしたんやろ?やっぱり報徳は底力があるん

やろか・・・。残念な結果となってしまいました。また京都成章は奈良1位の

智弁学園に3対2と競り勝ちました。成章はベスト8進出です。塔南は

是非とも21世紀枠でセンバツに出してあげたいですね。

                 では、今日も丹後の歴史を・・・、

 

 

                京丹後市峰山町橋木の縁城寺。

   養老元年(717)、インドの高僧善無畏(ぜんむい)三蔵の開基と伝わるこの

真言宗の発信貴山(はしきさん)縁城寺は、本堂の左右に運慶作という大きな

仁王像をひかえ、藤原中期の作と伝わる国の重要文化財千手観音立像を本尊と

する名刹です。

 

   この千手観音は、網野庄の地頭、後藤兵衛実基が頼朝公より賜って、この

千手院に納めたものと伝えられていますが、秘仏になっていて33年に一度しか

拝観することが出来ないといいます。もとは25坊もあった大寺も、度重なる火災で

ほとんど焼失してしまいました。

 

   境内に正平6年(1351)仏師行秀の銘のある高さ3.4mの立派な

宝 印塔があり、国の重要文化財に指定されています。善無畏の供養の為に

建てられた石塔です。銘の「正平」というのは南朝の年号で、丹後は一色氏の

領土であったため、ほとんど北朝の年号が使われているので極めて珍しいこと

です。正平6年は北朝の観応2年にあたります。

 

   また、元は立派であったろうと想像される多宝塔の一部が残っています。

これは麻呂子親王が鬼賊征伐のおり、その成就を祈願し、七大寺を建立して

七仏薬師を祀ったと言われる中の一つ、竹野郡願興寺にあったもので、

隠岐島から木材を運んで建立しましたが、願興寺が衰微した際、手水鉢とともに

縁城寺に移したのですが、応安7年(1374)の大火で焼失し、その後に建てられた

ものであると言われています。盛大であった当時が偲ばれますね。

 

   有名な「縁城寺年代記」は、宇川の吉野山上山寺所蔵の年代記を、

嘉永6年(1853)11月、西明院僧朝 によって臨写され、世代住職が補筆した

もので神武以来、年次ごとに縁城寺と関係寺院の動静及び丹後地方に起こった

史実、社寺、天災地変等まで丹念に記録されている貴重な資料です。

 

 

2310月

丹後の歴史⑰

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。今日から始まる秋季高校野球近畿大会。京都代表の

三校は厳しい戦いになりそうです。塔南は報徳との対戦。京都外大西はなんと

智弁和歌山・・。そして京都成章が智弁学園です。報徳は兵庫3位ですが、

自力があるので塔南としては油断は禁物です。そして京都外大西は強力打線の

智弁和歌山・・。三校共に1回戦を突破して春のセンバツへと・・・、頑張って欲しい

ものです!

              では、今日も丹後の歴史を・・・、

 

   京丹後市峰山町五箇(ごか)には標高661mの磯砂山があります。南西側の

尾根は兵庫県との境で但東町に通じ、北側は峰山町、西側は久美浜町、東側が

与謝郡へと裾野が延びています。

   「一山四名」の山として知られ、磯砂山、比治山、足占山、比沼山の名を

持ちますが、他にも伊去奈子岳、真名井山、など十以上の山名が伝えられています。

 

   磯砂山を舞台にした「七夕伝説」、「羽衣伝説」は有名ですが、いずれも天女が

水浴びをしています。「丹後風土記」によると、その池を真井というが、これは

地元で先祖代々神の池として崇め、他言を戒めてきた「男池(おいけ)」のことでは

ないかと思われています。

 

   男池は磯砂山の北側の中腹にある小山の山頂にあり、一辺が21mの

真四角の池で、その四方の角は正確に東西南北をさしているといいます。古い

文献では、別名を真名井、泥(ひじ)真名井、笠水(うけみず)、忍穂井(おしほい)

などとも呼ばれており、真名井の水は豊受大神が天照大神のために作られた

食事に使われたという伝説もあります。

 

   また天孫降臨で有名なのは、宮崎県の日向ですが、「日向高千穂の地には

水がなく、同行した天村雲命が高天原へ引き返して水を運んできた」との記録が

あります。「日本書紀」によると、高天原に天真名井があるということだから、

磯砂山の男池が天真名井なら、磯砂山かその近くに高天原があったことに

なります。

 

   さらに、「丹後風土記」には、豊受大神が磯砂山に天降られ、丹後地方に

初めて稲作の指導された神とあり、「吉佐宮皇大神神社神記」には、豊受皇太神

は天地開之初(あめつちひらけしとき)、高天原に成りませる神也とあります。

 

   このように、磯砂山は古代から神々と深い関係があり、日本の国の

成り立ちとも関わっていることも考えられ、注目すべきところでもあります。

下の写真が磯砂山です。

2210月

丹後の歴史⑯

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。プロ野球で星野さんが楽天の監督に就任するようですね。

体はもうどうもないんやろか?悲運の闘将・・・、星野監督・・・、義理、人情が時には

仇となっていました。チーム力を上げるには良い監督ですね。きっとすごい補強も

することでしょう。またまたパ・リーグが面白くなりそうです。

           では、今日は久しぶりに丹後の歴史を・・・、

     野球の話しはしたくないので・・・、ジャイアンツがようやく勝ちましたが・・・、

 やっと2番に松本を入れて・・・、早よすればええのに・・・、初戦からそうすれば・・、

ええのに・・・。(小さな声で呟いています)

           京丹後市弥栄町のあしぎぬの碑。

   あしぎぬは古代絹織物の元祖といわれ、精錬しないままの蚕糸を集めた

太い糸で練り上げた目の粗い絹織物で、天平11年(739)、すでに当地で

織られ、御所へ献上したと伝えられています。

 

   奈良東大寺の正倉院の資料に「丹後国竹野郡鳥取郷門田里車部鯨(くるま

べいなさ)調貢施一疋六丈天平十一年」の記録が残されており、緋の施一丈を

時の45代聖武天皇に献上して、今は御物として正倉院の南倉に保管されて

います。

 

   「大日本地名辞書」によれば「竹野郡鳥取郷は今の鳥取村、吉野村、溝谷村、

深田村なるべし、南は中郡の平野に接し、竹野川流域に属す」とあり、現在の

弥栄町であることは確かですが、門田里がどの部落に相当するかは不明です。

 

   次に、車部鯨の文字が見られますが、これは人名で、「日本古代人名辞書」

に「車部鯨は、丹後国竹野郡鳥取郷門田里の戸主」とあります。ですから、

鳥取郷の車部鯨という人が、施一疋を貢物として献上していたことは間違いの

ないところであろうと言われています。

 

   弥栄町では、この事実を後世に伝え、織物の歴史を認識させて、ちりめん産業

の発展に役立たせるための、顕彰碑の建設計画が進められました。昭和43年

(1968)4月、その発祥地と思われる鳥取地区の八ヶ崎を選定し、先人の遺徳を

偲んで丹後ちりめん発祥の地とする記念碑「あしぎぬの碑」が造られ、同年

11月3日文化の日に除幕式が行われました。

 

   顕彰碑は大江山産の巨石で、その庭園は広さ約300㎡、多くの名石を

取り入れ、松・もみじ・皐月・梅・モクセイ、その他四季の樹木を植えた近代的な

もので、弥栄平野を一望できる景勝地です。

 

   毎年7月、京丹後市商工会弥栄支所が「あしぎぬ顕彰祭」を行って、

地元の織物産業の繁栄を祈願しています。

下の写真が「あしぎぬの碑」です。

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