皆さん、こんにちは。政治はバタバタですが、スポーツは全開・・・。ラグビーも

いい試合(三洋とサントリーの決勝戦)をしていました。大方の予想を裏切り、

サントリーの優勝・・。それにしても男のスポーツ・・・。人と人のぶつかり合う骨の

音が聞こえてきそうなほど激しい試合でした・・。

 

              ではでは一昨日の続きです。

 

              重太郎さんの誤算とは・・・・、

 

   1901年から1902年の世界大恐慌が一番に起因しています。この年に重太郎

関係のうちいくつかは深刻な営業不振に陥り、百三十銀行の経営に悪影響を与える

こととなりました。その中で特に深刻だったのは、日本紡績で、同社は製品品質が

劣っていたことや、大きなウエイトを占めた中国市場での販売不振から営業不振と

なり、これを百三十銀行からの融資でまかなっていました。1904年に百三十銀行

が破綻する時には同行から日本紡績への融資は170万円余りにのぼり、そのほと

んどが不良債権化していました。また百三十銀行は頭取松本重太郎自身あるいは

洋反物商松本商店へも約160万円余りという巨額の融資を行っていました。

 

   恐慌で洋反物商も大きな打撃を受けましたが、松本商店も例外ではなかった

のでしょうね。重太郎関係企業への融資で、重太郎が債務保証をしていたものも

少なくなかったようで、やはり百三十銀行破綻当時に、重太郎への融資124万円

余が焦げ付くにいたります。これらは百三十銀行本店で生じた不良債権でしたが、

京都、福井、門司などでも多額の融資焦げ付きが生じるようになり、1904年に

休業に追い込まれ、その再建は政府の特別融資を受けた安田財閥(私とは関係

ありません・・。しつこいって?はい、すみません。)の安田善次郎の手に委ねられ

ました。こうして重太郎は私財を売り、百三十銀行に101万円余を弁済した上で

同行頭取のみならず関係していた会社から一切退きました。

 

   重太郎さんの体が20個ほどあれば倒産するまでにはならなかったと思います。

やはり仕事の量が多すぎますね・・・。

 

  

 

 

   

 

   皆さん、こんにちは。昨日は同級生の結婚報告会が当店で催されました。

昨年の12月に入籍して新婚生活をエンジョイされているようです。同級生の有志が

この会をしようと計画して24名もお祝いに駆けつけました。同級生は京都市内に

多く住んでいることもあり、当店でやろうということに・・・。他府県からも丹後からも

駆けつけてくれてご両人は感謝感謝でした。

 

   仲人代わりに担任の小宅先生ご夫妻が記念の品とお花を渡し、神父役には

飛くん(笑)、ケーキの入刀などセレモニーも行い和気藹々としたパーティになりまし

た。飛くんの見事な(笑)神父役に一同盛り上がり、ご両人は照れながらもセレモニー

を終えました。

下の写真、左がご両人、右はケーキの入刀・・です。

 

   

  

  

  

   そして和やかな雰囲気の中でお祝いをしながら、いつのまにか同窓会の雰囲気

に・・・。

下の写真左が挨拶する小宅先生とテーブルを囲む同窓生。

 

 

 

 

 

 

   それにしても我がクラス(蜜柑組)はほんとに仲がいい・・・。小、中学よりも・・

こうして同窓生という立場でしか級友を見ていない・・。お互いののステータスなんか

見向きもしない素晴らしい同窓生です。

   下はパーティが終わり、皆で集合写真を・・・。

   皆さん、こんにちは。今日は同窓生・東武彦くん(全日空)と平豊子さんの結婚報

告会が当店で催されます。高校卒業以来、かねさん(親父)の葬式で出会った二人・・。

そして一年半の遠距離恋愛の末(間人と京都市内)、昨年暮れに入籍しました。

   それで有志がお祝いの会をしようということになり、今夜開催されます。24名が

集まる予定です。叉詳細は明日ということで・・・。

 

            ではでは今日も松本重太郎氏のお話です。

 

                     で、続きで鉄道の・・・。

 

 

 

   鉄道は重太郎のもうひとつの柱となる事業分野だったようです。1884年、重太郎

は藤田伝三郎、田中市兵衛らとともに、事実上日本で初めての私鉄として阪堺鉄道を

設立しました。同鉄道の経営は順調で、高収益をあげた為、さらに重太郎は堺から

和歌山まで鉄道敷設を計画し1895年南海鉄道を設立、その社長となります。南海

鉄道は1898年に阪堺鉄道を吸収合併し、これで難波から和歌山をつなぐ鉄道が

完成することとなります。

 

   また1886年、重太郎らが発起人となって成立した山陽鉄道は1892年までに

神戸、三宮間の敷設を完了しましたが、1890年の大不況のあおりを受け不振と

なり、工事がストップしたまま、社長の中上川彦次郎が辞任してしまいます。

そして1892年に社長となった重太郎は借入金と社債発行で資金調達の道をつけ

三原、広島間の敷設を1894年までに完成させ、日清戦争期の軍需輸送に貢献

しました。

 

   いや~、それにしても短期間で仕事をやり過ぎてますね。重太郎さんも「止まると

死ぬねん!」と言ってはったんやろか・・・?ん~なアホな・・・。脱線・・・(笑)・・。

 

   その後重太郎は1898年以降、山陽鉄道の路線を大胆に延ばして行きます。

三田尻から下関まで軌道を延ばし、関門連絡船を介して九州鉄道との連絡を実現

します。そのほか浪速鉄道、阪鶴鉄道、七尾鉄道、豊州鉄道(後の九州鉄道)、讃岐

鉄道などにも関係し、西日本の鉄道網形成に大きく寄与しました。

   これだけ鉄道の拘ったのはやはり生まれ育った丹後の交通網・・・、不便だった

ことが起因しているのでしょうか?

 

   それから太湖汽船、内国海運、大阪運河会社など海運関係にも関係を持ち、

また日本精糖、大阪アルカリ、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本火災保険、

日本教育生命保険、明治炭坑など多くの会社の設立ないし経営に参画しました。

 

   後日、重太郎さんの失敗について書きたいのですが、重太郎さんの場合、

この失敗の原因は・・・?おごりか・・?はてまた・・・?

 

 

   

   皆さん、こんにちは。アフリカ、中近東の状況が悪くなっていますね。このまま

では油の金額が上昇しそうで・・・。それにしてもこれらの国々が安定する為には

かなりの時間がかかりそう・・・。

 

        ではでは今日も昨日の続きで・・、松本重太郎さんのお話を・・。

 

 

   松本重太郎は銀行の成功から紡績、鉄道などへと事業に参画しました。

               で、今日は紡績のお話を・・・。

 

   重太郎の洋反物商と深い事業として、1882年に設立された大阪紡績があります。

当時は東の渋沢栄一、西の松本重太郎と言われた時代・・。この紡績会社計画は、

東京が渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎の東京資本と華族資本によるもの、そして

西(大阪など)が松本重太郎、藤田伝三郎らによるものが合体してできたものでした。

 

   95人の株主のうち56人が大阪商人で、払込資本更正でも大阪商人の出費比率

が31%を占め、松本、藤田の斡旋で大阪に立地が決まり、創立後は藤田伝三郎が

初代頭取に決まり、松本は取締役に、また小室信夫の経営する問屋の番頭・蒲田

清蔵が商務支配人に就任するなど、大阪側の役割が大きくなりました。

 

   その後も大阪商人の持株比率が高くなり、重太郎は1887年に頭取となり

1898年までその職にありました。

 

   1884年には、もと政府の紡績機械貸し下げによって成立した渋沢紡績所の

経営が不振となり、これを渋谷庄三郎から買い取り、これを堂島紡績所とします。

1895年には紡績、織布兼業の日本紡績を設立して社長となり、翌年堂島紡績所

を吸収合併しました。さらに1896年には輸入織物のうち最も需要の多かったモスリン

の国産自給を企て、稲畑勝太郎はじめ大阪の舶来物品商とともに

創設、社長となります。そのほか、京都製糸、内外綿、大阪毛糸などの設立にも

関係して、設立後は重役となりました。

 

   う~ん、やっぱりすごい・・・。先を見る目と行動力・・・、参った・・・(笑)。

 

     では明日は鉄道の事業についてご披露したいと思います・・。

   皆さん、こんにちは。昨日は飲み過ぎました(笑)。学習能力のない私は加減と

いうものが分からないらしく・・(笑)、相変わらず・・・です。

 

       ではでは昨日の続きで松本重太郎さんの偉大な軌跡を・・。

 

 

      こうして洋反物商としての一定の地位を築いた松本重太郎・・。

   重太郎は1878年、東区高麗橋に資本金25円で第百三十銀行を設立します。

旧徳島藩士の小室信夫と組んで、宮津や福知山の藩士を説き、金禄公債を資本金

として出資させるのに成功させます。初代頭取には小室の父佐喜蔵が、取締役には

渋谷庄三郎(大阪の綿花商)、稲田佐七郎(大阪の洋反物商)、松本誠直(宮津の

株主)が就任し、重太郎は取締役兼支配人となりました。

 

   そして1880年には重太郎は頭取に就任します。こうして発展した銀行は

1896年には預金額は252万円、貸出額は278万円に達し、預金額248万円、

貸出額311万円の住友銀行と肩を並べ、在阪銀行のトップの座を占めました。

 

   1898年、国立銀行の満期解散にともない、同行は普通銀行に転換し、百三十

銀行となりました。そして百三十六銀行、大阪興業銀行、小西銀行、西陣銀行、

福知山銀行、八十七銀行を合併し、1902年末には資本金325万円、大阪・京都・

滋賀・福井・福岡に15店舗を持つ大銀行となりました。1898年、重太郎は大阪

銀行集会所委員長となり、押しも押されもせぬ大阪を代表する銀行家となります。

しかしこの頃から重太郎の百三十銀行はおかしくなりました。それは後日ご紹介

する事業(重太郎は様々な事業に手を拡げて)に深く関係するものでした。百三十

銀行はその後安田財閥(私の家系では決してありません・・。わかってるって?

はい、すみません)により救済され重太郎の死後安田銀行に合併吸収される

こととなります。

 

   松本重太郎・・、恐るべき・・・実業家・・・。実はこの先輩のドラマがあったの

です。何年前だったかNHKで「気張る男」というドラマ(城山三郎さん原作)がありま

した。この時の撮影には間人の商工会も協力したようですよ。立岩から後ヶ浜

海岸で撮影されていました。あ、それからこのドラマでは間人の老舗旅館「よ志のや」

の福山社長他有志が、協力していたそうですよ!!

 

   そういえば私が小学生の頃は中庭に重太郎さんの銅像が建っていました。

胸から上の銅像でしたが、私たちアホはこの銅像の目にガムをくっつけて・・・。

まったくバチあたりなものです。友人から「おみゃ、そぎゃーなこと(そんなこと)

しとったらバチがあたるど!」と注意されて・・・。そうなんです・・、おかげさんで

何度もバチがあたりました・・・(ガクッ)。

       「この場を借りまして・・、謹んでお詫び申し上げます・・・。」

 

   下の写真は現在の松本重太郎氏の石像です。8、9年前に建替えのあった間人

小学校・・・、正面にこの石像が新しく建てられました。私と一緒に写っているのは、

現参議院議員の二之湯先生です。先生は京都選出の議員さんですが、京都全般、

特に地方の活性化に心血を注ぎご活躍中です。丹後へもよくお越しになり、地元の

方々と様々な問題点について議論されているようで、京丹後市民にとっては頼もしい

「国会議員」ですね。ブログにて失礼かと思いましたが、「二ノ湯先生、いつもお世話に

なり有難うございます。今後ともどうかよろしくお願い申し上げます!」

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