皆さん、こんにちは。丹後の偉大な先人・・、以前私が勤務していたところ・・・、

この会社の創始者が峰山の方でした。(株)ルシアン・・、この社名の前は野村

株式会社といい、この会社を創った「野村直三さん」が峰山の出世頭?でしょうか・・?

また長くなると大きな目をして怒られるので野村さんのお話しは後日ということで・・・。

 

          ではでは間人の超偉大な先輩のお話です・・。

                 松本重太郎さん・・・、

 

             この方は丹後一の功績を残された方です・・・。

 

   天保15年に間人でお生まれになった松本重太郎。幼名は松岡亀蔵・・・。

松岡亀右衛門の次男として生まれました。生家は江戸時代から代々庄屋を勤め

苗字帯刀を許された家柄でした。やはりそれなりの家柄で育ったのでしょうね。

これが農民、漁師の息子だったらもっと拍手喝采なのですが・・・(笑)。

 

   彼は10歳の時、京都の呉服商菱屋勘七に丁稚奉公にあがります。そして3年後

には「商売を覚えるなら大坂で」と大坂は天満の呉服商錦屋利八方に移り、ここで

10数年間勤めました。錦屋は大坂の有力呉服問屋の1つで、ここで商人として活躍

していく素地を造り上げることが出来たのでしょうね。それにしてもこの時代・・・、

京都まで歩いて行ったんやろか・・?川は流れが反対だし・・、舟では行けない・・。

 

        まぁ、ええか・・・。余計なことは考えんとこ(笑)。

 

   明治元年(1868年)、24歳頃独立し、松本重太郎と名前を改めます。ちょうど

兵庫と大坂の開港が行われた年でした。さっそく重太郎は洋反物のブローカーを

始めます。大坂にはすでに数名の洋反物を取り扱って急速にのし上がった商人が

いました。重太郎は最初は行商だったのですが、1870年頃には東区平野町に

「丹重」を屋号とする店舗を構えました。そういえば、間人の衣服を取り扱う商人も

戦後はバイクに商品を乗せて行商をしていたようです。

         こないだ喜代子さん(お袋)に聞いたことがあって・・・、

 

               おっと、またまた脱線・・・(笑)。

                   本題に戻して・・、

 

   重太郎が大躍進したのは西南戦争の時でこの時軍用羅紗の買占めを行い、

巨利を得ました。

下の写真が松本重太郎氏です。

 

 

 

 

 

 

                           続きは明日へ・・・・・、

                    

                                                 と・・・・・・、

 

                 油断させておいて・・・(笑)・・、

 

                     あの~・・・・、

 

              すみません、また長くなります・・(笑)。

               一応、断っとこ~・・・、(笑)・・・。

   

   昨日は間人中学の同級生で吉岡くんが来てくれました。東京への出張があり

その合間に寄ってくれました。彼は京丹後市役所に勤務しているのですが、丹後の

情報を度々送ってくれているのが吉岡くんです。

   彼も中学時代は間人中学で野球をやっており、強肩強打の外野手として活躍

していました。32年ぶりに出場した去年の丹後町盆野球大会・・。当然のことながら

彼も試合に出ていたのですが、見事なホームランをかっ飛ばしました。役所に就職

してから間人クラブ(軟式野球の強豪ですよ)に入り、経験を積んだだけのことは

ありますね!!

 

   また彼の息子は元高校球児(網野高校)、一昨年の京都大会で上位進出の原動

力となっていましたよ。中学卒業以来出会ったのがこの大会での網野高校応援席・・・。

なんとなく縁を感じますね。

下の写真が吉岡茂昭くんです。

 

 

   

222月

丹後の偉大な先人3

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。大相撲・・・、相変わらず終止符が打たれません。大麻で

辞めた元若ノ鵬が、またまた暴露・・・。これも週刊誌などからお金を貰い暴露して

いるのでしょう・・。もうええ加減に蒸し返すのは止めといて欲しいですね。これ

以上やんのはあきまへん。どこまでさかのぼるつもりなんやろか?ほんまにマスコミ

の皆さん、「もうこりゃーちゃってくれぇな(もう許してやって下さい)」!!どうだ!!

 

       ではでは今日も丹後の先人のお話・・、引き続き相光寺様「敬業」より。

   

 

   峰山を出て見聞をひろめた松田道さん。松田さんはフェリスと同志社女子大で

学び、津田塾大学創始者の津田梅子さんが環境を整えた米国留学の奨学生に選ば

れて六年間渡米されました。帰国後は同志社女子大で教鞭をとり、後に学長に・・。

   

   松田さんのことも初耳・・・(恥)。同女の学長になれれた先輩がいらしたとは・・・。

   松田さんは晩年を峰山で過ごされて天寿を全うされたそうですよ・・。

下の写真が松田道さんです。

 

 

 

 

 

 

 相光寺様発行紙「敬業」初春号より抜粋

 

 

 

明日は間人の出世頭・松本重太郎氏のお話です・・・。では皆さん、ごきげんよう(笑)。

212月

丹後の偉大な先人2

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。昨日は知り合いのお店が10周年ということで、山科ブライ

トンホテルで10周年パーティがありました。夕方から出掛けてたくさん飲んでしま

いました(笑)。おかげさんで店に戻ってきた時には「ええあんびゃー」で・・・(笑)。

山科のブライトンホテルもなかなかいいホテルです。パーティ会場がこのホテルの

宴会場であったのですが、料理もオーソドックスなりにしっかりとしていました。難を

言えばソフト(従業員)が本社(京都ブライトンホテル)と比べると見劣りしますが・・。

 

     「こうじゃげな(生意気な)発言、失礼いたしました!!」

 

          ではでは今日も丹後の先人のお話を・・・。

 

      昨日に引き続き相光寺の西田先生よりいただいた「敬業」より・・。

 

               今回はお二人をご紹介いたします。

   佐藤哲さん(京極家の重臣・佐藤重全さんの娘)は山本秀煌さんを頼って上京

しました。そしてフェリスで勉学の後で母校の教授になられました。余談ですが、

哲さんの妹さんは牟田家へ嫁いで生んだのが一咋春に他界した俳優の牟田悌三

さん・・・。

   それから山本秀煌さんの姪でいらっしゃる岩井ソウさんは山本さんの奥様から

受けた英才教育と本人の資質が開花して東京女子大の教授になられています。

下の写真左が佐藤哲さん、右は岩井ソウさんです。

                        (相光寺様 発行紙「敬業」初春号より)

202月

丹後の歴史39

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。宮崎県はほんとに災害続き・・・。ひどいものです。口蹄疫、

鳥インフルエンザ、新燃岳噴火に伴う被害等・・、「宮崎県民の皆様、お見舞い申し上げ

ます」。また先日は京都の精華町でも死骸のハヤブサ一羽からH5型の高病原性鳥イン

フルエンザが確認されたとのこと・・・。ほんとにやっかいです・・・。

 

             ではでは、今日は京極家のお話しで・・・、

           相光寺ご住職・西田様よりいただいた資料より・・・、

 

                 幕末の京都藩邸・・・・、

   幕末の動乱期・・・、京都の存在感の復権に伴い各藩は京都にも藩邸を構えた

そうです。峰山藩の京都屋敷の所在は烏丸夷川。現在の京都新聞社だそうで・・。

私は・・・、これも知らなかった・・。それにしても峰山藩は、江戸上屋敷が現在の

首相官邸、京都屋敷が烏丸夷川と・・・。場所からみても、当時の力関係が・・・、

将軍などからの信任を得ていたことが伺えますね。

下の写真は峰山藩京都屋敷の証です(京都府立総合資料館)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            相光寺様の発行紙・「敬業」(平成二十三年初春号)より・・・。

192月

丹後の偉大な先人1

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。昨日は間人と網野の若手有望株が三人来てくれました。

間人が田中くんと角江くん、網野からは山内くんです。三人とも大学生ですが、しっか

りとした考えを持ったナイスガイです。同窓生の守源(守山倫明くん)の勧めで始めた

ツイッター・・。ここで田中くんが私をフォローしてくれたのが始まりで・・・。そして私も

フォローして年末に少し会話をしていました。

   網野高校バスケット部の同窓会が京都市内であり、その後当店に寄ってくれま

した。田中くんのお父さんが私の三つ年上、そして角江くんのお父さんは一つ年上

です。角江くんと名前を聞いた途端、あっ、先輩だと気がつきました。いや~、懐かしい

ですね。現在仲良くさせて貰っているよ志のやの福山社長と同級生です。

            「三人衆、昨夜はおおけに~!!」

 

            ではでは、今日は丹後の先人のお話を・・・、

 

 

     先日相光寺のご住職・西田様よりお送りいただいた発行紙を見ていると、

     丹後からは偉大な先人が多く輩出されていることに気がつきました。

 

   峰山のお殿様・京極様をはじめ、文化的に貢献された方々、また経済的に

貢献された方々など・・・。

 

   今日は山本秀煌(ひでてる)さん・・・。彼は峰山藩士の岩井家でお生まれに

なり、その後蔵奉行の山本市之進の養子に入られて、藩校の敬業堂で学んだ

旧峰山藩士です。

 

   東京の明治学院はローマ字普及の功績で知られるヘボン夫妻創立の「ヘボン

塾」が母体のプロテスタント系大学です。維新後、解禁のキリスト教が旧幕府側の

武士の支持を集めたように山本さんも「ヘボン塾」へは入られました。ということは

この大学(明治学院)の草創期に大きな足跡を残しておられるということ・・・。

 

   山本さんは牧師として赴任した四国の高知教会では後の衆議院議長・片岡

健吉や坂本竜馬の甥・坂本直寛を導き、その後横浜のフェリス女学院と母校の

明治学院で教授として壇上に立たれていました。

 

   また峰山藩士の子、多田素(しろし)さんも山本さんの後任で高知教会へ行かれ

後に名古屋の金城学院の初代理事長に就任されています。

                 えっ、金城といえば・・・、

   名古屋のお嬢様学校でした・・。私は高校卒業後名古屋のホテル学校へ行って

ましたが、この時にこの学校へ遊びに行っていました。私たち「アホのグループ」は

学園祭で盛り上がるこの学校へ「ナンパ」しに行っていたのです。いかつい車数台で

この神聖なる学校へ・・・。女の子に声を掛けては「そんないかつい車になんて

乗らへんも~ん!」と拒否され続けて・・・(笑)。丹後の先輩が理事長を勤めあげたこの

神聖なる学校へ・・・。「しまった!」えらい失礼なことをしてもうた・・・・(反省)・・・。

 

                    すみません・・・・、

        毎度の事ながらまたまた脱線してしまいました・・・(笑)。

            「多田先生、どうもすみませんでした!!」

下の写真、左が山本秀煌さん、そして右は多田素さんです。

             相光寺様発行紙「敬業」(平成二十三年 初春号)より

 

またこちらの写真は網野高校バスケット部OBの若手有望株三人衆です。左から山内

くん、田中くん、角江くんです。

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