28June8月

丹後の歴史①

Author: taizar

   皆さん、こんにちは。一昨日いらした間人の先輩・とっさん(中江敏夫さん)と

同級生の幸市(清水幸市くん)。二人の会話も面白かったけど・・・、峰山高校に

いた幸市が網野高校のとっさんに学ラン(短ラン)を借りて修学旅行に行きました。

この話にはオチが・・(笑)。とっさんは「おぅおぅ、あの学ランはようけ活躍しとったど。

久美浜のぼうずも借りに来とった!」と笑いながらお話されていました。とっさんは

たぶん福知山商(現在の福知山成美)から北・・、中丹から北丹まで制覇して

いたに違いありません(笑)。でも、皆さん・・・、この話はシークレットですよ。

今は真面目に?なられてますので、本人はいい顔されません(笑)。うそです(笑)。

というわけで?、今日は丹後の歴史を・・・、間人からスタートします。

 

 

   間人の地名・・・、由来は聖徳太子の生母「間人(はしひと)皇后」からと

伝えられています。奈良は大和の国で用明天皇のお后でいらした間人皇后は

都で起こる政権争いを逃れて由良川146キロを下り、この地を訪れ滞在したと

伝えられています。そして道教「荘子」の思想を理想とする争いのない「理想郷」

を築こうとしたとも伝えられ、間人皇后は村人たちに慕われたといいます。

 

   後に間人皇后がこの地を出て都に戻る時に「この地を間人と名乗ってよい」と

言われたのですが、村人たちは恐れ多いので・・・、皇后様が御退座されることに

敬意を表して間人(たいざ)と呼ばれるようになったと言われています。

 

   間人皇后が丹後に来た際にお供をした人物、穂見中江麿、東漢直駒、木目見

宿禰、蒲田麿興世、小坂部民谷、下戸部大連、中臣村主忠世、子孫たちが

現在「中江、東、相見、蒲田、小谷、谷、下戸、中村」の各姓で丹後に残って

います。そういえば、間人、竹野にはこの姓が多いですよ。このあたりでは

由緒正しい苗字ということですね・・。安田はありません。私のおじいさん(父方)

が「安田家は明智光秀の一の子分?と自慢していたそうなので、1500年後半に

こちらに来たようです。ちょうどこの頃は戦国時代ですが、竹野(間人の隣村)には

城跡があり、ここの石垣は安土桃山城の石垣と同じ造りだったそうですよ。

あっ、この石垣は今も残っています。確か竹野小学校の近くだったような・・・。

 

   丹後の歴史はこんな昔からあるので、少しずつご披露できればと

思っています。それから間人皇后がご対座される時に賜った歌があるのですが、

それは「大浜の里にむかしをとどめてし、間人(はしうど)村と世々につたへん」です。

   尚、間人皇后がこの地に滞在された間の館は、「御所の坪」と言われ、東山

公園の辺りではなかったかと言われています。この東山公園は私の実家がある

岡成地区の山中にあるのですが、幼少のころはよく遊びに行ってた所です。ここへ

遊びに行く時には、私の母君は「暗なるまでに帰って来んと隠し神さんに隠される

ど!」と私ら子供たちを脅していました(笑)。

下の写真は間人皇后と聖徳大使(間人の立岩近くにあります)の石像です。

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